湘南社・自由民権運動

山口左七郎と自由民権結社湘南社・伊勢原講学会

 

8山口左七郎は、神奈川県足柄上郡金子村(現、足柄上郡大井町)の間宮家に生まれ、1872(明治5)年に山口家の家督を相続しました。妻は、旗本間宮将監の娘。

左七郎はその後、神奈川県職員を経て大住・淘綾両郡の郡長になりますが、当時の県令野村靖と憲法論議で対立して郡長を辞職し、自由民権結社湘南社の社長となりました。湘南社は、相模国で最初にして最大の自由民権結社でした。

明治23年、第1回帝国議会衆議院議員に当選。自由倶楽部(クラブ)に所属し、請願委員になります。その後、自由党土佐派に組みして湘南社関係者の不評をかい、第2回衆議院選挙では、立候補辞退を新聞広告し、以後、実業界へ転ずることになりました。

 

 

子孫より見た「山口左七郎と湘南社の人々」

― 農村の近代化運動の歴史 ―

<より抜粋>

                       

 山口左七郎は嘉永2年(1849)足柄上郡金子村間宮家で生まれました。幼名は仁三郎と言います。父(間宮若三郎)は二宮尊徳に私淑し、水田の改良や荒地の開墾に尽くした人で、母の兄の瀬戸五郎左衛門も一時期、二宮家に住み込んだほどの熱烈な尊徳の信奉者でした。また、仁三郎の国学および和歌の師であった吉岡信之門下の先輩福住正兄は報徳四天王のひとりであります。ちなみに、吉岡信之は郡奉行のときに『報徳取扱』を兼務し、また妻は二宮金次郎に家政の立て直しを依頼した小田原藩士服部十郎兵衛の娘であります。

 幼年期の教育については、父(若三郎)や、中村滝右衛門(松田町)、熊沢與兵衛(柳川村)等が協議して(林鶴粱の塾頭をつとめた)環節堂(新一郎)を招聘し、子の間宮仁三郎(山口左七郎)、中村舜次郎(中村はのちに足柄上郡長として左七郎とともに民権派郡長と呼ばれる)、熊沢又造(儀正:左七郎の母の姉の子)等の教育を託しています。

左七郎は、明治5年大住郡上粕屋村山口作助の養子となり、同族の旗本間宮将監の娘槙と結婚し家督を相続しました。この養父作助も、変わった人で・・・・・などと述べているありさまです。いずれにしても、彼の周りには、報徳を軸にして、『新しい農村を作ろう』と言う熱気のようなものが感じられます。そのような人たちが、次に出合ったのが国会開設運動をきっかけとして全国展開した自由民権運動でした。もっとも、金子時代の左七郎自身にはあまり政治性は感じられず、普通の、ただ感受性の強い青年であったような気がします。その彼が、どうして民権結社『湘南社』の社長になったかはわかりませんが、郡長のとき神奈川県令野村靖と憲法の論議(主権論について)で衝突し即刻その職を辞して『湘南社』の社長に就任しました。そのような彼も含めた県西部の農村の人達は熱烈な自由民権運動を通して急速に普遍性(政治性といってもよい)をもっていきました。

このようにして対象の広域化(地域が広がる、農民以外のさまざまな人達にも目を広げる)や論理的に議論を展開すると言った農村の近代化のながれは、経済の近代化とともに、国会が開設されたのを境に自由民権運動が衰退していったにもおかまいなく続いていきました。二、三の例を挙げれば、明治25年には農業株式会社(大住郡善波山共同牧農場)、かなり早い時期に産業組合もでき、また、明治23年廃娼決議案が県議会を通過、明治30年代には三郡共立学校(現秦野高校)・農学校(現平塚農業高校)、43年には盲人学校(現平塚盲学校)ができるなど、福祉や教育の面でも活動しました。

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